飫肥城

今回の旅の大きな目的のひとつ、飫肥城しかし、ここにきて、順調だった旅の天気が…朝から雨 宮崎駅からJRで飫肥駅まで行き、そこから天気を考慮、タクシーで飫肥城へ。お天気だったら歩けるほどの距離です。タクシーを降り、バスターミナルのような場所で、ちょっと観光案内していただく。飫肥城周辺は、武家屋敷がたくさん残っていて、小村寿太郎(ポーツマス条約締結時の外務大臣)の生誕地(記念館)もあって、お城だけでなく飫肥全体をアピールしている模様。この場所では組み合わせ割引チケットのみ販売している。その後の観光予定を考え、武家屋敷や記念館はスルーすることにして、飫肥城へ。いろいろ質問したわりに、あっさりスルーしてすみませんでした。 はい、飫肥城です。到着したあたりで、雨が大変なことになっている中、ここまで来たのだから…と、必死に傘を握りしめて城内に。 ここ、宮崎は、シラス台地。かなり雨が強く降っていても、水はけがよくて、変に感動してしまった。写真小さいけど、わかりますかね雨が素早く浸み込んでいくので、城内の歴史資料館に行くまでは、わりと楽でした。 こちらは、大手門西側の土塁です。木の向こう側が一段高くなってますよね。この土塁の向こう側が、大手門前の空堀になっていて、大きな落差を生んでいます。 この時、雨はこんな勢いでした。排水溝を流れる水をご覧ください。でも、まだ、水たまりにはなってないですよね。シラス台地、恐るべし、です。 ここで、歴史資料館へ。窓口のスタッフさんがとてもやさしくて、百名城のスタンプは…

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和歌山城

毎年、12月に一緒に城納めに行く友人と、「今年はどこに行こうか」と9月ごろに話していたら、和歌山に行きたいとか。城というよりは、アドベンチャーワールドに行きたいということだったが、それじゃ、近場の城ではなく、和歌山に行こうと決まり、あたふたと準備して行ってきました。 新幹線で新大阪まで行き、特急くろしおに乗り換え、和歌山へ。旅程としては、まず、和歌山城に行き、その後、白浜温泉で一泊、翌日、アドベンチャーワールドという流れ。長い鉄道旅の果てにJR和歌山駅に着いたら、階段に歓迎されました。ありがとうございます まずは、腹ごなし。昼からすみません…まだ電車に乗っただけなのに、いきなりご褒美でいいのだろうかと思いながらも、ほかの選択肢はなく、昼から乾杯となりました。 食事は、和歌山名物…なのかな醤油ラーメンです。さっぱりとして、めちゃくちゃ美味しかったです。和歌山って醤油の産地で有名なんですね…全然知らなかった…写真は、「紀州湯浅吟醸醤油ラーメン」です。吟醸…トッピングで煮卵をチョイスしたのも正解でした 駅に戻り、タクシーで和歌山城に。タクシーの運転手さんもとても温かく、和歌山城について、歴代城主の話など、色々教えてくれました。写真は、タクシーの車窓から撮影した和歌山城。運転手さんがシャッターチャンスを教えてくれました。 タクシーで天守の真下につけていただくと、案内人の忍者さんが丁寧に順路を教えてくれました。観光客に優しいとこだなぁ~まっすぐ天守閣に向かう階段の道をチョイスし、ラーメンパワーで登…

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八王子城

東京都にありながら、いまだに訪れていなかった八王子城、満を持して行ってきました 中央線高尾駅で下車、祝日は、八王子城直通のバスが出ているので、そのバスを利用しました。1時間に1本しか出ていないので、時間を調べて行った方がいいです。ただ、八王子駅北口には、ショップ併設の喫茶があって、食事もできるので、助かりました。 高尾駅からバスで15分くらいでしょうか。降りてすぐのところにガイダンス施設があり、そこで北条氏の歴史などを学びつつ、スタンプを押して、いよいよ、八王子城へ。 え、なんか、山(今頃、気づいたヒト)この日は、夏のような暑い日。こんな日に山登りですか 若干引きながら、帰りのバスの時間を計算し、山頂の本丸まで行けなくても、時間通りに戻ってこようと決める。 まだ、まったく山に行ってませんが、既にこの時点で、深い濠発見。さすが、北条の城ですね。八王子城は、小田原征伐の一環として、秀吉軍に攻められ、女子供を含む多くの犠牲者を出した城でもあります。北条の城は、どこも鉄壁の防御網で、それを秀吉軍は人海戦術で打ち破っていくんですよね。いったいどれだけの兵を犠牲にして戦っていたのか…と思うと、胸が痛みます。 こちらは、川の斜面に作られた「橋を架けるための橋台石垣」の跡とのことです。ここに簡単な木橋を架け、敵が侵入する際には、橋を壊して侵入を防いでいたとか。 こちらは、築城当時の石垣。400年前に積まれた時と同じ状態とのことです。素朴な野面積みが素敵ですね。いつまでも眺めていられます では、ここ…

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五稜郭

函館2日目は、もちろん、五稜郭オープンと同時に五稜郭タワーへ。 タワーの上から見ると、五角形の形がよくわかりますね。(端がちょっと切れてますけど…) タワーの上に、土方さんがいらっしゃったので、和泉守兼定(極)と2ショット撮影をさせていただきました。逆光だったので、色味の加工をしております。 日米和親条約によって箱館港が開港したことに伴い、箱館奉行所を設置したものの、地理的に防御に適さなかったことから、箱館湾内から仮に砲撃されても届かない位置に、防御に強い土塁を作って、その中に奉行所を置くことになったーそれが、ここ、五稜郭。五角形の稜堡となったのは、箱館に入港したフランスの軍艦の副館長の指導を受け、箱館奉行所の武田斐三郎の設計によるもの。 すごいですね。桜+兼さん似合いすぎる さて、大政奉還の後、箱館奉行所は、新政府の箱館府として使用されていたが、半年後に榎本武揚率いる旧幕府軍の攻撃を受け、箱館知事が逃走。無人の五稜郭は、旧幕府軍に占領された。こうして本格的に箱館戦争が始まったが、新政府軍は、各地に大砲を並べて五稜郭を攻撃、奉行所にも命中するなどする中、とうとう幕府軍は降伏することとなった。 そんな悲しい歴史のある五稜郭ですが、ご覧の通り、見渡す限りの桜・桜・桜ここまでずっと桜を追いかけてきたのは、ここで、この桜に出合うためだったのかもしれない…と、ムネアツになりました ちなみに、「刀剣乱舞」関係なく、昔から榎本武揚ファンだったもので、そういう意味でも、ここに来れたのは嬉しかったです…

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松前城

根城に行った後、八戸から新幹線に乗り、函館へ。北海道の終点駅は「新函館北斗」という名前で、一応「函館」の名前は入っているものの、「横浜」と「新横浜」とか、「大阪」と「新大阪」の距離感ではないということを初めて知りました。 うわ…けっこう距離あるな…と思いながら、函館駅へ。函館本線の0キロポストがあったので、撮影してみました。 で、函館で一泊し、温泉にも入り、翌朝早々、松前城を目指すことになりました。函館から、木古内駅まで行き、そこから松前城行きのバスに乗る…というコースなのですが、JR北海道の駅は、函館の次の「五稜郭」までで、そこからは、「道南いさりび鉄道」という第三セクターの線になります。一方、目的地の木古内駅は、北海道新幹線の停車駅になっている…という、脳がこんがらがるような旅路でした。 木古内駅は、新幹線の駅でもあるので、立派なんですよね。そこに間借りするような形で停まっている、道南いさりび鉄道の電車可愛いですね。車体のぐるぐるマークが、イカ釣り漁の「漁火」を表現しているようです。道南いさりび鉄道には、一日乗車券というのがあって、函館駅のJRイン(ホテル)のカウンター等で販売していて、木古内との往復だと数百円安くあがるようです。 木古内駅を降りると、駅前がロータリーになっていて、その向かい側に道の駅「みそぎの郷きこない」というのがあります。ここの塩パンが人気のようで、朝からたくさんの人が並んでいました。松前ではお昼を食べる場所もなさげ…ということだったので、ここで、ブランチ的に軽食を…

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根城

弘前から八戸に行き、百名城のひとつ、根城に向かいました。今回も強行軍でございます。 まず、スタンプをいただきに、八戸市博物館へ。入口にこちらの銅像。根城も、北東北の名士、南部一族の城です。銅像になった南部師行は、北畠顕家に従って奥州での南部氏の拠点を確立した人物のようです。あの、公家将軍・北畠顕家(「桜嵐記」では、夢奈瑠音くんが演じていましたね)ですそして、最期は、北畠顕家と共に泉州石津(堺市)で討死したとのこと。ただ、根城は、その後も南部氏の居城であったそうです。 14世紀から17世紀まで300年間、一度も落城することなく、城としての役目を終えた名城だったとのこと。さあ、どんな城なのでしょうか。 こちらは、旧八戸城東門を移築したものだそうです。伝承によると、もとは根城の門だったものが、八戸城に移築され、安政6(1857)年に強風で倒れた後、家臣の門として建て替えられたものとのこと。ずいぶん、長い旅をして戻って来たということでしょうか。 堀切のようになっていますが、地図には、記載がなく、現在、この辺りは、公園のような扱いになっている感じです。(本丸だけ、再現されている。) でも、もったいないくらい、広くて、気持ちいい場所でした。この辺は「中館」と呼ばれていたようです。家臣たちが住んでいた場所のようですね。この時期は「桜祭り」が開催されている時期だったようですが、ここでも桜は既に…果たして、私たちは、桜前線に追いつくことができるのでしょうか こちらは、中館にあった「東屋」です。 時々、…

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弘前城

弘前に一泊して、翌朝、早朝、再び弘前城へ。朝は、駅前にバスも停まっていなかったので、タクシーで弘前城へ。1,000円ちょっとかかったかな。 青空に八重紅枝垂がよく似合います。 さっそく、東門から入場。空襲を受けなかった弘前城では、多くの施設が現存しています。この東門も重要文化財の指定を受けています。 建物(門や櫓)だけでなく、城内の樹木にもそれは言えるわけで、弘前城内には、樹齢百年を超す古木がいくつも存在していました。特に、平均寿命60年といわれる染井吉野の古木(樹齢百年以上)がたくさんあって、もしかしたら、都会の街路樹になっている染井吉野が60年くらいでバタバタと枯死しているだけで、本当は、けっこう強い木なのではなんて思いました。 こちらの霞桜は、正徳5(1715)年に藩士が苗木を城内に植えたものの1本ということで、樹齢は300年を超えています。 こちらの染井吉野は、明治15(1882)年に旧藩士から寄贈されたもので、現存するソメイヨシノとしては、国内最古級とのこと。弘前公園内には、樹齢百年以上の染井吉野が400本以上立派に花を咲かせているとのこと。少しだけ、花も残ってますね。 こちらは、二の丸東門与力番所。江戸時代初期に建てられ、江戸時代中期に一度改修されたものと推察されている。廃藩以降は、取り壊されることもなく放置されていたのを、大正4年頃に曳家移築し、以後、公園管理人宿舎や、作業員詰所として使用していたとか。現在の建物は、昭和54(1979)年から3年をかけて復元移…

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盛岡城

日本百名城をめぐる旅、今年は、東北&北海道の旅となりました。まずは、東北新幹線に乗り、盛岡へ。 盛岡駅で新幹線を降り、駅前に停まっていた循環バス「でんでんむし」号に乗って盛岡城へ。今回の東北旅は、いい感じにバスを楽しめた旅でした。 バス停に到着すると、いきなり、こちらの枝垂桜。これは素晴らしいと気分が上がったのもつかの間、どうやら、盛岡城ご自慢の石垣が、現在大修復中なんだそうです。石垣好きとしては、とても残念…と思いつつ、気を取り直して少し遠回りをして盛岡城公園に向かうこととなりました。 ぐるりと外堀沿いに回って、看板を発見園内には、たくさんの池があって、緑も多く、城に興味がなくても、散策を楽しめるつくりになっているようです。まずは、いつものように、スタンプをいただくため、隣接する「もりおか歴史文化館」へ。スタンプは、受付兼お土産コーナーの係の方に出していただきます。レジを使用しないため、接客中でも応対可能なようです。御城印希望の場合は、レジ列に並ぶ必要があります。 こちらは、会館庭の桜。八重紅枝垂でしょうか。まだ、蕾も多くて、これから満開の時を迎えるのでしょうね。 東北は枝垂桜が多くて、弘前城でも染井吉野と同じくらいの本数を見かけました。特に今年は、予想外に染井吉野が早く咲き、通常の花見を期待していた観光客には残念でしたが、その残念さを補って余りある、美しい枝垂桜に各地で癒されました。 庭には、横に長く伸びた古い五葉松の木があり、(上に伸びる方の枝は枯れて切られており、横に伸びた脇枝…

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長篠城

3年ぶりに2月の名古屋遠征。そのついでに、長篠城に行ってきました。 長篠…というと、歴史の教科書にも登場する「長篠の戦い」(織田信長鉄砲隊三段撃ち)を思い出してしまうが、ここ、長篠城に来て、いわゆる「長篠の戦い」が決した場所は、ここから少し離れた場所にある「設楽原(したらがはら)」なのだそうだ。長篠城の攻防は、その前哨戦となる。武田勝頼率いる1万5千の大軍が、500人の守備隊しか擁していない長篠城を取り囲んだ。籠城数日、城内にいた鳥居強右衛門(すねえもん)という武士が、決死の覚悟で城を脱出、岡崎城の家康に援軍を要請した。その時には、既に織田・徳川連合軍が出陣の準備をしており、3万を超える織田軍が出陣するとあって、安心した鳥居は、朗報を伝えようと、再び長篠城に取って返すが、武田軍に捕らえられてしまう。援軍は来ないから、籠城をやめて降伏するように、城内に向かって叫ぶように言われた強右衛門だったが、援軍が来るから持ちこたえるように叫んで、処刑される。(磔の刑)こちらのロッカーに描かれているのが、その、鳥居強右衛門。各所の剛毛がすごい…でも胸毛はないんだなぁ… こちらは、長篠城の堀。堀の土をかき上げて、「土居(どい)」を作ったとのこと。堀にはかつては水が引き入れられていたようです。 長篠城址・史跡保存館では、百名城のスタンプのほか、上記鳥居強右衛門にまつわる物語や、武具、出土品などがコンパクトに展示されている。ちなみに、決戦の場、設楽原にも資料館があって、少しお得なセット券も販売されている。車で訪れ…

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金山城

今年5月に四国を回った城友とは、毎年、年末頃に近隣の城を訪れている。もう近場の百名城には、だいぶ行ってしまったので、今年は、群馬県にある金山城に行くことにした。 東武伊勢崎線太田駅下車。途中単線になるので、どんなにさびれたとこに行くのと不安になったが、太田駅は、かなり立派なターミナル駅だった。マスコットキャラクターもいた。「おおたん」だそうです。 しかし、太田には、おおたんよりずっと先輩のキャラクターがいる。「新田義貞」さんです。駅前に銅像がありました。(右側で跪いているのは、弟の脇屋義助らしいです。)大河ドラマ「鎌倉殿の13人」を楽しんでいる身としては、その鎌倉幕府にとどめを刺した新田義貞公のルーツの地にたどり着く年の瀬…ということに、なにか、しみじみしたものを感じます。てか、鎌倉行きたかったな、今年。 四国でもやったように、観光案内にまず行き、「ガイダンス施設」を紹介いただく。ガイダンス施設までは、タクシーで時間短縮。施設は、隈研吾氏設計の素敵なところで、ここで、金山城の歴史を勉強した。金山城は、15世紀に築城された山城。新田一族の岩松氏によって築城され、明応の乱、享禄の変を経て、横瀬氏(由良氏)が実権を握り、その後、上杉謙信・武田勝頼に攻められても守り切り、難攻不落と言われた。北条氏に城主の由良国繁、弟の長尾顕長(まんばちゃんの作刀を命じた人ですね!)が軟禁され、助命のため開城、やがて、小田原北条氏の支城のひとつへと変遷した。(開城されなかったら、まんばちゃんも生まれなかったのね…)北…

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