「仮面のロマネスク」考

1997年の初演当時は、全組観るライトファンで、当時なりのご贔屓は雪組ではなかったので、一度しか観ていない。ただ、トップ退団公演についてはビデオを購入することにしていたので、公演ビデオは何回か観ている。という程度なのだが、これが意外にあちこち憶えていて、ストーリーもほぼ間違いなく記憶していて、名作というのは、そんな風に人の心に残るものなんだなーと、改めて感慨に耽った。さて、祐飛さん。貴重なトップとしての大劇場公演なので、積極的には希望したことはなかったが、「ベルサイユのばら」のアンドレと、「風と共に去りぬ」のレット・バトラーは似合うだろうな~と思っていたので、セリ上がって来た姿が、「ベルサイユのばら」アンドレ編のプロローグっぽくて感動!これで十分です初演の高嶺ふぶき×花總まりコンビは、美貌のトップコンビで、この公演は高嶺のサヨナラ公演でもあったので、とにかく衣装が豪華だった記憶がある。そして、心の底では愛し合っている男女の心理戦が、王政復古という特殊な時代背景と相俟って、緊迫感をもって胸に迫って来た、という記憶がある。一方、新たに革命を起こそうとしているブルジョアジーや、貧しくも逞しい一般民衆の場面が、せっかくの恋愛劇をブツ切れにしていてもったいないなーという気持ちにもなった。原作はフランス革命の時代なので、わざわざ時代背景を変更した王政復古時代の背景は、どこか唐突感があったのかもしれないし、当時の多彩な雪組メンバーを効果的に使うためのこの配役に無理を感じたためかもしれない。この後、柴田先生は脚本…

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「クラシコ・イタリアーノ」年表

「クラシコ・イタリアーノ」では、わりと、年月が具体的に出てくるので、ちょっくら年表を作ってみようかな?と思う。舞台は1960年代のイタリア。というか、途中“クラーク・ゲーブルと共演なんてまだまだ…”というセリフがあるので、ジャスト1960年じゃないかと、大劇場の時には思っていた。というのは、クラーク・ゲーブルは1960年の11月、「荒馬と女」撮影直後に心臓発作で死去しているから。でも、東京で、“ハンフリー・ボガートと共演なんてまだまだ…”というセリフが追加されたので、むしろ、電話の相手(ミーナのおばあちゃん)が半分ボケちゃってるか、情報過疎地に居住しているか…ってことなのかな?と思いなおした。ボギーは1960年代まで生きてはいないので。さて、サルヴァトーレ・フェリ氏。終戦間近の大空襲で家族を全員失ったのが10歳の時。シチリアの終戦は1943年(島なので単独で連合軍に解放された)なので、それより後に空襲はない。ということは、サルヴァトーレは1933年生まれということになる。今年78歳か。どんなおじいちゃんになっているかしらね。そんな彼は、生きるために、花売り、窓ふき、靴磨きをやり、警察のやっかいになるようなことも起こし、やがて施設の世話になり、アレッサンドロ・ファビーノの店の職人見習いになってようやく生きる意味を見つける。戦争孤児たちを職人の見習いにして手に職をつけさせよう、というのは国策なので、イタリアが再び国家として統一されて以降の話だろうから、少なくとも1946年頃にはなっているだろう。13~…

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NICE GUYって、本当にNICE GUY?

ショー・アトラクト「NICE GUY!!」は、内容もバラエティーに富んでいて、観ていて飽きないショー。あっという間にフィナーレになってしまう。そんな「NICE GUY!!」なのだが、二つほど大きな不満がある。ひとつは、これぞ!というダンス場面がないこと。「偏揺」はKAZUMI-BOY先生の振付なので、細かく振りがついてはいるが、雰囲気重視の場面なので、それはそれで好きなのだが、「ファンキー・サンシャイン」のプラズマの場面とまではいかなくても、ダンス頑張ってるなーという場面はどこかに欲しい。決してテクニカルでなくても、「ルナロッサ」の砂の場面のように、体力の限り踊っているという場面でもいい。「風」の場面がそうなり得る要素はあるのだが、場面自体がそれほど長くなく、風というテーマが、「ルナロッサ」の砂に似ているので、同じような感動にはつながらなかった。そして、この「風」の場面そのものがもう一つの不満になっている。まず、前場面の最後に降っていた雨がいつの間にか嵐になり、風が踊り出す…という自然気象がダンスになっている。で、ここに美穂圭子さんが登場して、涙の雨が…的な歌を歌い出す。それで、ただの自然現象の風が、今の日本の状況に置き換わる。そういう情緒的な場面にすり替わって行く。そして、凰稀、北翔、野々の踊りは、祈りのように静かに場を支配する。天羽の歌がさらに盛り上げて、そして神々しい姿の大空が登場する。それがねー、違和感なの。藤井先生は「世界を救うNICE GUY」という表現をしている。でも、今の日本を思い…

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三成命日!

10月1日は石田三成が六条河原で処刑された日とのこと。ちょうど一週間すれば、宙組公演の初日が開いて、三成さまを引きずることもなくなるかもしれません。今夜はあの時代を駆け抜けた戦国武将達に、思いを馳せようと思ってます。そういえば、今日から、赤い羽根の共同募金が始まりました。いつもは、関心なく通り過ぎているのですが、助け合い精神について考えさせられた今年、ということで、さっそく寄付してきました♪

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「ルナロッサ」に嵌まった!

20年以上観劇していると、お芝居は、どんな昔のものでも、あー、あの時のあれね~!と思い出せるのだが、ショーは中身が入り繰って、最近のものでも、かなり記憶が曖昧。●●先生のあのショーのあそこが…と言えたらどんなにか楽しいだろうと思うが、どうやら、私は、ショーを鑑賞する能力がかなり低いらしい。理屈っぽくて、芝居においても首尾一貫を求める性格の私には、ショーの持つ曖昧さとか、矛盾を楽しむという能力が欠落しているのかもしれない。ただ、時々、それすらも超越して、このショーは好きだ!と思えるショーに出合うことがある。それは好きなスターさんが私のイメージ通りのシーンに登場してくれたから、というのもあるし、よくわからないけどショー自体に嵌まったというのもある。宙組は、大空祐飛主演になってから大劇場公演は4作あるが、ショー作品はまだ2作。たぶん、私のようなファンは少ないと思うが、任期が極端に短いのでなければ、ある程度一本立て作品もこなしてほしいので、私的には、このバランスには満足。ショー作品が多すぎると、自分の好きなスターの作品なのに、中身がごっちゃになって覚えてられないだろうし。ショー1作目の「ファンキー・サンシャイン」は、気に入っている。メリハリがあって、盛り上がりがハッキリしているし、ハチャメチャもグダグダもなんじゃそりゃー!も、全部詰まったおもちゃ箱をひっくり返したようなショーで、すごく好きだった。で。2作目の「ルナロッサ」には、嵌まっている。好きなショーと、嵌まるショーの間は、少し違う。嵌まるためには、ど…

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花組「ル・ポァゾン2」への夢

東宝花組の「ファントム」も佳境。これが終わると花組は、DC「カナリア」組と全国ツアー組に分かれる。DC「カナリア」も再演なので、誰がどの役になるのか、超楽しみだが、全ツの「ル・ポァゾン」は、公式HPの公演案内にも「星組版を一部アレンジして…」と書かれているので、内容も変わりそうで、ますます目が離せない。そこで、実際どうなるのか…の予想というよりは、こんな「ル・ポァゾン」だったらいいなぁ~なんて夢を書いてみたい。岡田敬二先生のロマンチック・レビューシリーズは、大まかに第一章、第二章…みたいな形で進んで、途中に「間奏曲」が入るパターン。なので、章ごとに検証したい。プロローグ吟遊詩人が歌う「あなたがもし恋をしているのなら…」の歌は、たぶん、だいもん(望海風斗)になるんだと思う。耳福だし、それは楽しみなのだが(いや、みつるでも全然かまいませんが…)、もし、そこで最初から、らんとむ氏が登場したら、たぶん狂喜乱舞するわ、私。「♪ギリシャ、ローマの昔から~♪トリスタンとイゾルデ!」という歌の合間の“叫び声”、聞いてみたい!そして、吟遊詩人の大きな帽子を脱ぎ、マントをさっと脱ぎ捨て、真っ赤な衣装のらんとむ!みたいなのはどうでしょう?で、プロローグに突入。これ、絶対鼻血ものだと思うのですが、とろりんさま、いかがですか?(私信)トリスタンとイゾルデVSローエングリン本家「ル・ポァゾン」では、シャンソン「愛の喜び」を使ってトリスタンとイゾルデの恋を描いていたが、中日の「ル・ポァゾン2」では、白鳥のボートから登場した青年…

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ファントムB

「ファントム」Bパターンを観劇した。役替りのことをあまり意識しないで、自分都合のみでチケットを取ったため、全4回観劇のうち、A=3、B=1といういびつな観劇、しかもB先行という比較しづらいカタチになってしまって、残念に思いながら、とりあえず、大劇場ではAパターンで観ているので、それを思い出しつつ、一度きりのBパターンを真剣に観劇することにした。が、途中で、「これは、そもそもアリなのか?」という疑問が生まれた。そもそも、このパターン、いらないよね!海外ミュージカルなどの特別な公演では、役が生徒個人へのアテガキではない上、宝塚の“番手”システムにもそぐわないことが多い。しかもオリジナルものに比べて版権等のコストがかかっているので、損益分岐点は通常のオリジナル公演より高いところにある。宝塚ファンのパイは限られているので、リピート性を上げることで売上の向上を図りたい。…というような事情で「役替り」は成立する。(それ以外にも特別公演だったり、再演ものだったり…と、アテガキでない故の役替り事情は色々あるが、基本的には、海外ミュージカルでの役替りが多い。)一昨年の梅田芸術劇場花組公演、「ME AND MY GIRL」でも役替りがあった。あの時は、私は1パターンしか観劇していないが、これはどちらもアリなキャスティングだと思う。(ジョン卿=壮・愛音、ジャッキー=壮・朝夏、ジェラルド=愛音・朝夏)今回は、シャンドン伯=愛音・朝夏、ショレ=愛音・華形、セルジュ=華形、朝夏という役替りで、うーん、どうかな?とは思っていた…

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仁・義・礼・智・忠・信・孝・悌

「仁・義・礼・智・忠・信・孝・悌」言わずとしれた八犬伝の「珠」に書かれた文字。「美しき生涯」の石田三成って、「義」だけではなく、このすべてを体現した人物なんじゃないだろうか、とふと思った。「仁」仁とは、もともとは敵味方なく、人を人として遇すること。だから「医は仁」なの。赤十字の精神ですね。戦においては、鬼神のような三成ではあるが、ひとたび戦が終われば、落城と共に敵味方の思いは焼け落ちました、と本気で言える人、それが三成。「義」三成が義の人だということは、誰も異を唱えないと思う。ただ、この義には、忠義だけでなく信義もあって、世の三成ファンは信義に篤い三成が好きと言う人も多く、そこが描かれなかったのが、ちょい残念ではある。「礼」特技、土下座ですから。しかも、パフォーマンスとしてではなく、心からの土下座ができる人、それが三成ではないかと思う。「智」秀吉から行政を任されているところや、北ノ庄攻略の作戦を進言するところなど、智の人である魅力も十分。その他、行動の端々に熟慮の末、という雰囲気が感じられるのは、三成をそういう人に作ろうという、祐飛さんの意思もあるのかな?と思っている。「忠」これはもう見た通り、まさに君に忠なお人です。「信」信義については、「義」の項目で述べたが、信念の人でもある。本作品にあっては、乱世でも人を信じることができる人というイメージもある。だからこそ、小早川秀秋の裏切りが堪えたのだろう。「孝」三成の親については、本作品では描かれていないが、全国を飛び回って行政を担当していた三成に代わっ…

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ひとつだけわかったこと

ずっと「わからない」と思っていた茶々の気持ちの中で、ひとつだけ、わかったことがある。茶々が、“もう人が死ぬのを見たくない”と言っていたのに、秀次の死を願った理由―秀吉自身が弱っているのに気づいた茶々は、秀吉の死後を考えた。豊臣秀次が本当に“殺生関白”だったかは疑問だが、気性は激しかったらしい。とすれば、秀吉亡きあと、秀次の命令で、秀頼が殺されてしまうかもしれない!と茶々が懸念するのはごく普通の気持ちかも…と。そしてその延長で、「豊臣を自分と秀頼と三成の世にしたい」と思ってもしょうがないかな?と。愛し合っていても理解しあえない二人…だからこそ、悲恋が似合うのかもしれない。

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石田三成の義と愛

この間は、帰納法で検証してイマイチだったので、今度は演繹法で検証してみようかな?ラストシーンから遡るのではなく、物語の始まりから順を追って、石田三成の「美しき生涯」を考えてみる。ここで大切なのは、何を以て「美しき生涯」とするか、だ。「三成のように清廉な人物」とは、どういう人物なのか。脚本の大石静先生のインタビュー等を聞く限りでは、「裏切り、下剋上が当たり前だった戦国の世に、最後まで主君に忠義を尽くした」という意味の清廉であり、美しき生涯だったように思える。そんな三成の清廉さを際立たせるためには、対象物を下げるともっと清廉さが浮き立つ。つまり、立派な殿様だったから家臣が忠義を尽くした、という殿様&家臣コンビ上げ方式ではなく、殿様はひどいヤツだったのに、最後まで忠臣であったという単独上げ方式にするわけだ。この辺は、始終酔っているところとか、茶々への執心とか、朝鮮出兵における民への無頓着さで表現されている。そして、暗君に盲従しているのではなく、ちゃんと意見もしている、という面も描かれている。そして秀吉の死後も、最後まで亡君に忠誠を尽くし、死んでいった立派な男、という体裁なわけだ。ここまでは、実に「美しき生涯」「清廉な人物」といえる。そんな三成の前に一人の姫君が現れる。「不思議な姫の強きまなざし」に惹かれた三成は、半年ほど後、北ノ庄城から彼女を助け出す。姫―茶々は、この時既に三成への好意を隠そうともしない。しかし、分別のある三成には、姫の好意に応えることなど考えられない。なぜなら、姫は、織田信長の姪であり…

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