もやもや「死と乙女」~かんがえごとの束 その2~

何度も書いているので、もう読者の皆様はよーくご存じだと思うが、私は超方向音痴なのですなので、舞台上の位置関係だけでなく、口頭で説明されている「舞台に登場しないもの」の位置関係とかも、漠然と把握することができません。絵に描いたりして、自分を納得させないと、どうも座りが悪い…というか、気になっちゃったりしています。今回の「死と乙女」では、ミランダ氏が乗ってきた車のことが、とっても気になっていました。まず、そもそもの始まり。大統領に呼ばれたジェラルドーは、そこから、週末を過ごすコテージに向かう途中、車がパンクしてしまった。パンクした場所から、コテージまでは、とても歩けない距離…ということは、10キロくらいは離れているのだろう。そこで、ジェラルドーは、ミランダに拾われ、車を道路脇に放置したまま、帰宅する。その晩、ミランダが訪れる。彼は、家の前に車を横付けして、訪問している。深夜、ポーリナは、ミランダを縛り上げると、車からジャッキを下して、ミランダの車に乗って出発。たしか、家に電話はなく、電話を架けるためには、数キロ離れたガソリンスタンドまで行かなければならない…という設定だった。ポーリナは、数キロ先のガソリンスタンドに行き、修理工場に電話を架ける。朝、できるだけ早く来てほしい…と。そして、ミランダが訪問している…ということが、万一にも知られないように、家まで車に乗って戻らず、どこかに(たぶん茂みとかに)車を隠す。とはいえ、ポーリナは女なので、そんなに長距離を歩いて帰ってくるとは考えられない。おそらく家から…

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もやもや「死と乙女」~かんがえごとの束 その1~

 ようやく、眠れない日々が終わりました。そんな今回の公演、放送禁止用語連発(放送禁止用語だからといってすべてブログに書けない言葉というわけではないのですが…)それにプラスして、性的な単語というのは、それだけを検索しているまったくお呼びでない人々を呼んでしまう可能性もあるので、これまでは、できるだけ避けるようにしてきたのですが、今回は、どうしても避けがたい感じです。ただ、ネットは、お子様でも利用できるものなので、一応の手段として、「18歳以上の皆様へ」以降に今回の「かんがえごと」は記載させていただきますので、年齢確認の上、お読みくださるよう、宜しくお願いいたします。このネタ、別に18禁じゃないし…っていう話は、また別記事にしますので、乙女の皆様はそちらをお待ちください。クリエの劇場前の光るパネル、ここに写真が載るのがとても嬉しかったです。

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「familia」登場人物の背景

「familia」を観ながら、エヴァ(大空祐飛)と父アニーバル(福井貴一)、そして、エヴァの父を里親とするフェルナンド(岸祐二)とその弟、アリソン(柳下大)の人間関係について、観劇しながら考察していた。本当の家族がいつ、どんな風に離れ離れになり、里親との親子関係がどんな風に結ばれたか…。それを時系列に並べたらどうなるのか、と。年表を頭に作りながら、観ていた…というか。それを、あらためて、考証してみたい。まず、エヴァ。彼女は、生年月日が劇中で語られている。1943年4月25日生まれ、と。エヴァは、生まれてすぐに教会に預けられた。この舞台では、1973年の早春から1974年4月25日までが描かれているので、29歳~31歳のエヴァを見ることができる。次にフェルナンド。彼は、生年月日はわからないものの、実の家族と別れた時と、養父に巡り会った時の年齢を劇中で語っている。13歳で父を失い、直後に生活のため、母が再婚。義父からのDVを受けていたが、15歳で母が死に、孤児院へ。その時、弟のアリソンと別々の孤児院へ預けられている。孤児院に馴染めずにいたところ、わりとすぐに里親のアニーバル・モラエスに引き取られる。この養父の影響で軍に入り、内戦から7年ぶりに帰国した。階級は少佐。フェルナンドの弟、アリソンは、「歩くのも覚束ない」(byエヴァ)頃にエヴァの孤児院に引き取られた。その時、両親の名前の入ったペンダントを胸にしていたという。歩くのも覚束ないというと、1歳くらいかフェルナンドが同じ両親の名前の入ったペンダントを…

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モンローとステファーノ

「ラスト・タイクーン」のステージングは、先行する演出家、小池修一郎と植田景子のテイストを強く感じる。宝塚の舞台にフィッツジェラルド作品を選ぶというセンスが既に似ているからかもしれないし、主役をどう見せるか、の感性が似ているのかもしれない。そして、フィッツジェラルドという名前(開演アナウンスで紹介される)と、プロローグでバーン!と孤高の絶対権力者を出してきたところ(まるで『クラシコ・イタリアーノ』)で、どうしたって大空祐飛を思い出さずにはいられなかった。そしてこの作品は映画がテーマとなっている。次第に、私は、大空祐飛が主演した『HOLLYWOOD LOVER』を思い出していた。あの作品は、大空が月組を離れることを前提に、そんな大空祐飛を盛り立てるために書かれていて、それゆえに、目的を果たした後に敢えて語られることがなかったし、植田景子×大空祐飛の舞台といえば、やはり作品の質的に『THE LAST PARTY』だろうな~とも思う。とはいえ、『HOLLYWOOD LOVER』も宝塚の芝居としては、質の高いメロドラマである。そして今、「ラスト・タイクーン」を観ながら、『HOLLYWOOD LOVER』には、「ラスト・タイクーン」(原作)のテイストがたくさん盛り込まれていたんだなぁ~と思い、急に、あの芝居が懐かしくなった。そして、この芝居に、ステファーノ・グランディが出ていたら、どんなことになっただろう?としばし、空想の翼を羽ばたかせてみたのだった。モンロー・スターは、完璧主義者のプロデューサー…

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「眠らない男 ナポレオン」考察

こちら、公演デザートの“ゆずれないデザート ナポレモン”です。  さて、こちらに記載した通り、私、ずーっと「ナポレオン」がわからなくて、かなり悶々とした日々を過ごしていたのですが…。そんな、胸につかえた何かが、4回目の観劇ですとーんっと落ち、5回目でおおーっ!と完全に納得してしまった。そういうナゾか~小池修一郎×ジェラール・プレスギュルヴィック、日仏合作ミュージカル、と思っていたから、だったのだ小池修一郎のミュージカルに、プレスギュルヴィック氏が楽曲を提供した、と考えれば、まったく問題なかったのだ。「Never Say Good-bye」が、小池修一郎×ワイルドホーンではなかったように。楽曲は、プレスギュルヴィックでも、「ナポレオン」の作り方は、宝塚版「エリザベート」なのだ!何を求めて 誰を愛した 望みは全て 叶っただろうか「嵐のように生きた男」には、そんな歌詞がある。これって、「エリザベート」のテーマと一緒だよね?てか、楽曲の作曲はプレスギュルヴィックかもしれないが、音楽担当はむしろ太田健だよね?暗殺未遂シーンの不安を表す音も、「エリザベート」暗殺シーン冒頭と同じ音だし。というわけで、「エリザベート」を念頭に置くと、いろんなものが、すごく納得できる。「彼が歴史に何を残そうとしたか、わからない」ではなく、「わからない」が正解なのだ。ナポレオンもエリザベートも常人には計り知れない人物であり、それゆえの孤独を背負っている。誰にも理解されない強い希いと、それゆえの激動の人生と、それに伴う激しい孤独…。「…

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間尺に合わない物語

“滝の白糸”は、泉鏡花の著作、「義血侠血」のヒロインである水島友の水芸人としての芸名。なんと小説が出た翌年には、川上音二郎により舞台化され、それ以来、芝居(主に新派)・映画では「滝の白糸」のタイトルが使われている。この原作からして実に間尺に合わない物語なのだ。女芸人、水島友は、お金がないために学問の道に進めない青年、村越に出会い、この法律を学びたいと言う見ず知らずの青年のために仕送りをすることになる。ところがその仕送り期間も最後になって、送るはずの金を強盗に奪われ、魔がさした水島は、自らも強盗殺人を犯してしまう。現場に残された遺留品から、水島から金を奪った男が強盗殺人犯として捕まるが、彼が雇った弁護人が事件の真相に気づき、参考人として水島は金沢裁判所に呼ばれることになる。男か水島か、どちらが犯人か、という緊迫した裁判に、なんと検察官代理として村越が現れ、彼に諭されて水島は真実を告白する。その結果、水島には死刑が言い渡され、その判決の夜、村越も自殺する。相手が検察官代理になれるんだったら、そもそも仕送りいらないんでは?と思ったアナタ、そうなんですこの二人、手紙のやり取りをしていたのに、肝心のお金の話をしてないので、いつまで、いくら必要なのかっていうことが、友にはわからなかったわけです。だから、いらないお金を必死で前借りし、いらないお金のために人殺しまでしてしまった…という…新派の芝居では、もう少しドラマチックにするため、水島友が法廷で罪を告白した後、舌を噛んで自殺、その後を追うように、村越がピストル…

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里村さん家の背景詩

全国ツアー公演「若き日の唄は忘れじ」の中で、文四郎(壮一帆)が家老、里村(蓮城まこと)に呼ばれ、通された部屋には、衝立三枚に5文字×4行の詩が書かれている。文字を覚えて、調べてみると、それは白居易(白楽天)の詩だった。白居易49 <折剣頭> 拾得折剣頭不知折之由一握青蛇尾数寸碧峰頭疑是斬鯨鯢不然刺蛟虬欠落泥土中委棄無人収我有鄙介性好剛不好柔勿軽直折剣猶勝曲全鉤簡単な訳文を付すと、「折れた剣の先を拾った。どうして折れたかはわからない。青蛇の尾の先とも、碧い峰の先端とも見える。鯨を斬ったのか、蛟虬を刺したのか、欠けて泥の中に落ち、拾われることもなかった。私はひねくれた性分で、剛を好み柔を好まない。しかし真直ぐの折れた剣を軽んじてはならない。曲がった釣り針より、なお勝っているのだから。」という感じだろうか?“直折剣”と“曲全鉤”が対比されていることから、折れた剣先は、釣り針程度の長さしかないのかもしれない。そして、曲全鉤は、サイズは同じでも釣り針として完璧な全部なのだろう。それでも、自分は、折れた剣先>完璧な釣り針だと。=曲がりたくない、まっすぐでいたいという、並々ならぬ決意が感じられる。反曲学阿世。それって、里村家老一派に相応しくないっつーか、むしろ、文四郎の生き方なのでは?と、不思議な気がしたが、それよりなにより、これは、大野先生の生き方だったらしい。歌劇誌2011年新年号の大野先生のお言葉、“我ながら鄙介の性があり、「欠けて泥土の中に落ち、委棄して人の収むる無し」有様は、余り変わりそうにありません…

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「ナルシス・ノアール」(初演)の世界

ある日の公演で、隣の席の方たちの開演前のトークが耳に入った。どうやら、はっちさんのファンで、初見らしい。初演もご覧になっているようで、熱く中詰を語っていた。「ネッシーさん(日向薫)と、シメさん(紫苑ゆう)と、マリコさん(麻路さき)と、はっちさん(夏美よう)と、あとサミーさん(千珠晄)のシーンが熱くて…あれは誰がやるんだろう?」ごめんねそのシーンは、ないこの中詰が変更になったことは、私も、当初、非常にショックだった。いや、全ツでこの中詰は無理です。だって盆回しが前提だから。だけど、この場面だけならやれるんじゃないかと思って。喜多弘先生とすぐにわかる振付で、5人の男役がひたすらオラオラしてるシーン。オラオラしながら銀橋まで渡り、上手の花道でポーズ、暗転。20年以上の時を経てなお、燦然と人々の記憶に焼き付いている場面。「ナルシス・ノアール」というテーマに相応しい、ちょっとアブナいナルシストたち。ちょっとボディビルダー系の振付が、また、想像を膨らませる。あれがあるから、次の間奏曲『魅惑のサンバ』の爽やかな若手達(稔幸・絵麻緒ゆう・神田智)との対比が鮮やかだったのだ。岡田先生のロマンチックレビューシリーズは、「ル・ポァゾン」と「ナルシス・ノアール」で頂点に達したと、私は個人的に思っている。シリーズは、昭和がリアルだった時代の終わり(バブルの終焉頃?)と共に、緩やかに別世界に移行していった。つまり、カミング・センチュリー(21世紀のことね)は、アジアだ!みたいな…。岡田先生が未来に目を向けたところで、ロマンチ…

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武部春樹を語る

今回の全国ツアー、2月の中日公演と同じ芝居の演目にもかかわらず、全然違う作品になっている。それも、個々の台詞とかは(誰がしゃべるかは別にして)ほとんど変わっていないのに…だ。大野先生の演出家としての才能と、生徒への並々ならぬ洞察力がうかがえて非常に面白かった。そんな中で、まっつの演じる武部春樹さんが、これまでの2回(初演シリーズの英真なおきと中日の蓮城まこと)に比べ、飛躍的に出番が多い上に、完全にキャラが変わっていることに驚愕した。もともと、武部春樹と留伊の夫婦は、二人とも原作には登場しない。原作に登場するのは、文四郎の姉ではなく、父ほど年の離れた兄だ。たしかに、子供のいない牧の家に養子に入るのだから、文四郎には家を継いだ兄がいる方が正しいと思われる。それを“姉”にし、姉の嫁ぎ先として、武部とのエピソードを大関先生が創作した。それは、この公演で退団する、誰からも愛された星組の名娘役、洲悠花のため、というのも大きかったと思う。だから、初演シリーズにおける武部の人生は、普通に留伊を愛して結婚したものの、藩のお家騒動に巻き込まれる中、保身を図ろうとした小心者の過ち…という感じだった。牧助左衛門の事件が、男である文四郎に及ぼした影響と、女である留伊に及ぼした影響を描くための重要なファクターのひとつ…それが大関先生にとっての武部だったのかもしれない。中日で蓮城が演じた時に、初めて“色悪”というテイストが生まれた。大野先生は、蓮城のキャラクターを見て、そっちの方向に持っていこうと考えたのかもしれない。蓮城の演…

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ロミオとジュリエット

宝塚歌劇で「ロミオとジュリエット」といえば、もう、プレスギュルヴィック版しかない…というくらい、浸透してしまった感があるが、そもそも、このプレスギュルヴィック版は、シェイクスピアの書いた「ロミオとジュリエット」から、一部のプロットが変更されている。最初は、そのことが、どうも腑に落ちなかったが、今ではすっかり、気にならなくなっている。音楽と演出の力は偉大だ。とはいえ、シェイクスピアの偉大さは段違いで、死後400年になろうとする今も、決して色褪せることはない。あの時代、多くの演劇がイギリス国民を楽しませていたはずだが、今も世界中で毎日上演されているのは、シェイクスピアの作品だけだ。ゆえに、もう一度、シェイクスピアに遡って、物語の肝の部分を探ってみたい。「ロミオとジュリエット」には先行作品が多数存在する。もともと、仲の悪い家同士の子が恋仲になって…という悲劇は、ギリシャ神話の『ピラマスとシスビー』(シェイクスピアの『夏の夜の夢』の劇中劇で有名)の時代からある定番ネタだが、「ロミオとジュリエット」じたいは、イタリアで起きた実在の事件がもとになっている、とも言われている。そんなわけで、ヴェローナには、ジュリエットの家だとか、ジュリエットの棺だとかが、まことしやかに現存しており、一大観光地となっている。実話かどうかについては、真偽定かではないそうだが、ともかく、シェイクスピアが手をつける100年ほど前には、イタリアで「ロミオとジュリエット」らしき内容の小説が出版されているという。その後16世紀に入り、マッテオ…

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