現在、博多座で上演中のミュージカル「1789」。
主人公のロナンが死んだあと、残されたロベスピエール達が、人権宣言を読み上げる。
この作品の中で、何度も「自由とは、他を傷つけないすべてのことをなしうる権利」と語られている。
ここに人権の本質があると思う。
自分の意志で、望むことすべてをやれる、言える、それが「自由」。しかしそれは、自分以外の人を傷つけるものであってはならない。肉体的に…というだけでなく、他者の尊厳や生き方や性自認や性志向を踏みにじってはならない。それが「人権」。
フランス革命は、「自由・平等・博愛」を三色旗に表し、すべての人間が、生まれながらに人権を持っていることを宣言した。ここに、世界の近世が始まったのだと言われている。
多くの犠牲の果てに、市民が獲得した「人権」。それは、恐怖政治や、ナポレオンの時代や、王政復古を乗り越えて、今も生きている。
このフランス革命は、日本でいうと寛政の改革と同時期の出来事。当時の日本は鎖国中だったので、ヨーロッパの新しい考え方は、幕末から明治にヨーロッパを訪れた一部の人々によって日本にもたらされた。
人権は民主主義の根幹をなす意識だが、人権に限らず、日本人は、民主主義というものを、誤解したまま運用している…と、井沢元彦氏が著書「逆説の日本史」に書いていた。
民主主義とは、「多数決」でもなければ、「話し合い至上主義」でもない。
多数決や話し合いより上位に「基本的人権」がある。それを前提に、話し合い、最終的に多数決で物事を決するのが民主主義なのだ。
なぜならば、「人権宣言」によれば、この権利は神に与えられた「人が生まれながらに持っている権利」だから。
「人は、その指先一本、髪の毛一本に至るまで、すべて神の下に自由であり平等であるべきなのだ」とオスカル様もおっしゃっている。
「神の下」という部分は、キリスト教的思想が根底にあるので、海外から宗教を輸入しない方針の日本は、この部分を省略したのかもしれない。
その結果、「自由」や「平等」を推しはかる基準がなくなってしまった。
神の目、という俯瞰的なものがなくなり、「多数の意見」を通すことが民主主義である、と安易に考えられているのではないか。
選挙で多数を占め、与党となった自民党の国会議員が、とんでもない自論を雑誌に載せ、それについて「人それぞれ人生観」とか幹事長が評するというのだから、唖然とする。
彼女は、限りある税金の使い道について、優先順位をつける…という意味で、くだんの発言をしたらしいが、むしろ、そんな国会議員に支払う税金の方がもったいないと思う。
イケてない議員の皆様、一度「1789」を観に行っていただきたい。
今月中に終わっちゃうけどさ。
(もっと具体的に論破したいけど、彼女の元発言をネットで見るだけで具合が悪くなる方も多いと聞き、それはやめました。当事者にとっては、権力者の側に立つ人のこういう発言は、呼吸ができなくなるほどつらいことなのだ、ということをどうしたら、この人たちに理解してもらえるのだろうか。)
この記事へのコメント