「欲望という名の電車」観劇

「欲望という名の電車」


作:テネシー・ウィリアムズ
翻訳:小田島恒志
演出:フィリップ・ブリーン
美術:マックス・ジョーンズ


照明:勝柴次朗
音響:長野朋美
衣裳:黒須はな子
ヘアメイク:佐藤裕子
美術助手:ルース・ホール、原田愛
演出助手:渡邉さつき
通訳:時田曜子
舞台監督:幸光順平


「欲望という名の電車」、過去に篠井英介主演作品(鈴木勝秀演出)のものを2度観ているが、女優主演で観るのは初めて。
今回の舞台は、ブランチ・デュボワに大竹しのぶ、スタンリー・コワルスキーに北村一輝、その妻でブランチの妹・ステラに鈴木杏、ブランチに恋をするミッチに藤岡正明という配役。


舞台はアメリカ南部のニューオーリンズ。日本語のタイトルは「欲望という名の電車」だが、原題は、“A Streetcar Named Desire”。Streetcar=路面電車である。Desire Streetは、実際に存在する横丁の名前で、そこを通る路面電車なので、Desireという名前が付けられている。
大昔、ニューオーリンズに行った時、Streetcarの写真、撮ったな~[わーい(嬉しい顔)]


ニューオーリンズのその界隈の横丁は、貧しい白人たちが住んでいるところのようで、そこにやってきたのが、いささか場違いな貴婦人然とした女性、ブランチ・デュボア(大竹しのぶ)。妹のステラ(鈴木杏)に会いに来たという。ステラは、長屋のような家に夫のコワルスキー(北村一輝)と暮らしていて、多少乱暴だが、自分を強く愛してくれるコワルスキーにメロメロだが、かつて南部の富豪だったことを忘れられないブランチは、そんな妹に大いに不満がある。
顔を見たら帰るのかと思いきや、ブランチは、居心地の悪いコワルスキー家に居座ってしまう。そして、この家で夜通しポーカーをしに来るメンバーの一人、ミッチ(藤岡正明)は、上品なブランチにすっかり心を奪われてしまう。
ブランチとそりが合わないコワルスキーは、親友のミッチが彼女に惹かれていることもあり、ブランチのことを調べ始める。そして、彼女の恐ろしい正体を知ってしまう。親友として、コワルスキーはすべてをミッチに話し…


この戯曲には、痛々しい設定がいくつもあって、そのひとつが、ブランチを崇拝していたミッチが、すべてを知った後にブランチを訪ねるシーンだ。
(学校で国語の先生をしていたブランチだが、その裏で、彼女は、住んでいた街で有名になるくらい男漁りをしていて、相手になる男に不自由したあまり、教え子に手を出してしまい、学校と街を追われたのだった。)
そういう女と知ったからは、妻として、母親に紹介できない。でも、そういう女と知ったからは、これまでみたいにおずおずとデートに誘うんじゃなくて…と、ブランチに襲い掛かる。ひどい…[もうやだ~(悲しい顔)]
でも、純情なミッチだったので、どうにか、難を逃れるブランチ。


しかし、コワルスキーは、もともと残虐性もあるし、これまでのブランチへの怒りもあるので、躊躇なくブランチを犯す。ステラが出産のために病院に行っているその時に。
この一晩の出来事により、ブランチの最後の正気が失われ、彼女は精神病院に連れていかれることになる。
何も知らないステラ。悪いことをしたと思っていないコワルスキー。


救われない…[バッド(下向き矢印)][バッド(下向き矢印)][バッド(下向き矢印)]


この救われなさは、女優がブランチを演じることによって、いたたまれなさになる。
これまで、篠井英介のブランチしか観ていない私は、そのことに初めて気づいた。
そして、テネシー・ウィリアムズの遺族を説得して、篠井ブランチを強行したあのシリーズは、私にとっては、乾いてヒリヒリする胸の痛みを受け入れることができる唯一のキャストだったのかもしれないと思った。

救われなさ、は、私は耐え難く感じたが、それこそが、テネシー・ウィリアムズの望んだ世界なのかもしれない。
そのわりに、ブランチ強姦シーンの演出は、絵として、そういうものに見えず、残念な感じ。
コワルスキーとステラのラブシーンは、慣れ親しんだ夫婦の気安さと、肉体的な魅力を感じ合っているカップルの熟れた愛欲が感じられて、見事な演出だと思った。(決してエロに走っているわけではなく。)
でも…[バッド(下向き矢印)][バッド(下向き矢印)][バッド(下向き矢印)]
もちろん、強姦シーンをリアルにやれ、というのも違うし、相手は大女優様だし、いろいろあるんだろうな…と思いつつ、たとえ、ニンフォマニアと言われる女性であっても、無理矢理犯される恐怖と屈辱は絶対にあると思うし、象徴的な表現でいいから、そこをしっかりと描いてほしいなと思った。


まあ、そういう微妙な要望はありつつも、大竹ブランチの演技には、もはや、神が宿っているとしか思えなかった。
さすがの大竹しのぶであっても、畳みかけるように長ゼリフを言うのは、難しい。どこかで、覚え込んだ台詞が出てこないことも出てくる。瞬時、台詞が止まっても、明らかに自分の言葉の混じったものであっても、大竹の台詞は、そのすべてがブランチのものだった。
女優・大竹しのぶの真骨頂を見たと思った。
これを引き出したことは、演出家の功績であると思う。


真夏のニューオーリンズの湿度の高そうな空気感、猥雑な街の人々西尾まりが好演!)、不思議な仮面の出てくるシーンなど、日本人には、ちょっとできない演出も面白かった。2017年の観劇の締めくくりに相応しい舞台だったと思う。

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