「ハムレット」
ジョン・ケアード演出による「ハムレット」を観た。
舞台の上にもう一つ八百屋舞台を作り、芝居は基本、その上で行う。
舞台上手には椅子を置き、音楽(尺八)の藤原道三さんのほか、出演者たちが、出番の間に座っている。
舞台下手には客席を置き、横からではあるが、迫真のステージを観劇できる。
舞台上に余計な装置は置かず、場面ごとに必要なものは、都度役者たちが運び入れる形になっている。簡素なステージの上で、俳優の力量が試されるような、そんな「ハムレット」だった。
出演者は14名。
大きな劇場の「ハムレット」としては少ないが、世界中で愛されている「ハムレット」は、色々なサイズの劇場で上演されていて、私が過去に観た作品にも10名くらいの出演者のものは、いくつかある。出演者が少ない場合は、一人が何役かを演じるわけだが、この舞台の特徴は、主役のハムレットでさえも二役をしていることだろう。
つまり、意識的な二役。ここに、今回のケアード版の意味があるのだろうと思う。
実際、ハムレット役の内野聖陽が、ノルウェーの王子、フォーティンブラスになって登場すると、なんとなく釈然としなかったラストシーンが、納得できてしまう。国王・王妃・そして後継者すべてなくなってしまった国を、突然他国の王子が奪い去ることの理不尽さが、同じヒトが演じることで薄らぐのだ。
これは日本における「ハムレット」上演の画期的打開策かもしれない。
というか、ヨーロッパでは、あのラストシーンはそれほど、唐突ではないんじゃないかと思っている。なにしろ、狭い土地をやったり取ったりの歴史を繰り返してきたから。
で、「ハムレット」はお馴染みの物語なので、記事は、演出と、出演者の感想にとどめる。
まず、第三独白(to be or not to be)の位置が少し早い、という改変がある。そもそも第三独白は、ハムレットとオフィーリアのやり取り(尼寺へ行け)の直前にあるのだが、今回は、この二つが分断されている。その効果は…よくわからない。第三独白自体とても難解で深い意味は分からないので、どこにあっても違和感はないというべきか。
男性出演者は、日本の古代(それこそ邪馬台国とか?)みたいな衣装、ガートルードとオフィーリアは同じ白いドレスで、ガートルードは上衣をつけて帯をしている。で、二人とも白いスニーカー。男性出演者も足元はスニーカーっぽかった。白じゃないから目立たなかったけど。
ま、衣装なんかは二の次で、台詞劇を楽しめ、という意図とは思うが、このジャパネスク感は、どう理解したらいいのか。日本人なんだからキモノ着ておけってことなんだろうか。それとも海外公演を視野にいれているのか。
普段着での上演より、こういうジャパネスクの方が気になる。だって、なんか変だし。
で、「あなた太ってるんだから…」というガートルードの台詞があって、「ハムレットは太っていた!」という本も出ているくらいなのだが、実際、太っていた(笑)もちろん、演者の実年齢相応の素敵な体格なのだが、くすっと笑った。
そして、ハムレットとオフィーリアは、本当に恋しあっていたんだなーと思える演出。そして、レアティーズ(加藤和樹)もポローニアス(壌晴彦)も、オフィーリアが可愛かったんだなーと思った。だからこその悲劇。
貫地谷しほりのオフィーリアはとても素朴で、誰からも愛される女性だった。
オフィーリアが、父親の命令でハムレットを試すようなシーン、あの場面、彼女は何を考えているんだろう?といつも思う。そういえば、シェイクスピアに登場する恋する女子は、父親の言うことを聞かない子が多いのよね。そのせいか、余計、この従順さはなんなのだろう?と思ってしまう。
恋人同士の会話を父親に聴かせるのだ。いやじゃないのだろうか、と。
オフィーリア自身が、ハムレットの突然の変心に合点がいかず、彼の気持ちを確かめようとする父親の策に乗ってしまう、という解釈もできるのだが、今回は、わりと素直に父の言うことを聴く娘だった気がする。
墓のシーンから、最後の場面まで、ハムレットの愛、レアティーズの愛、レアティーズの苦悩が伝わって、すごくよかった。そして、ハムレットは若い俳優だけのものじゃないなーと思った。演技が熟してから演じるハムレットの良さを堪能した時間だった。
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