宝塚歌劇花組東京公演「ラスト・タイクーン」観劇

ミュージカル
「ラスト・タイクーン―ハリウッドの帝王、不滅の愛―」
~F・スコット・フィッツジェラルド作「ラスト・タイクーン」より~

脚本・演出:生田大和
作曲・編曲:太田健、青木朝子
音楽指揮:若林裕治
振付:御織ゆみ乃、桜木涼介
装置:二村周作
衣装:有村淳
照明:笠原俊幸
音響:大坪正仁
小道具:下農直幸
歌唱指導:楊淑美
映像:奥秀太郎
演出助手:田渕大輔
舞台進行:青木文

原作は、アメリカ文学を代表する作家、F・スコット・フィッツジェラルドの未完の遺作である。
宝塚ファン的には、2004年の『THE LAST PARTY』で、主人公のスコット(大和悠河/大空祐飛)が、人生の最後に命を削りながら書いていた作品として記憶されている方も多いだろう。また、この作品をモチーフに小池修一郎先生によって作られた1997年の『失われた楽園』を思い出される方もいらっしゃるだろう。
当時、生活のため、ハリウッドで脚本を書いていたフィッツジェラルドが、自身の体験をもとに、天才的なプロデューサーとして名を馳せ、夭折した(享年37歳)アーヴィング・タルバーグをモデルにして書いたと言われている「ラスト・タイクーン」。Tycoonとは、実は、“大君”=日本の将軍のことだそうで、まあ、それくらいの絶対権力者という意味で使われているようだ。
そして、大劇場の感想でも書いたが、フィッツジェラルドは、宝塚歌劇団でも拘りの演出家として知られている、小池修一郎、植田景子の両先輩が、かなり傾倒している作家だ。いくら劇団からの依頼でも、同じオタク系作家として、生田先生、やりづらかっただろうなー[あせあせ(飛び散る汗)]と、同情する。
しかも、未完の作品なんだから、どういうオチつけるんだよー[たらーっ(汗)]という問題もあるし。

なのに…スコットったら、生田先生の上には降りて来なかったし、夢にも出てあげなかったらしい…[もうやだ~(悲しい顔)]

(三島由紀夫先生は、生田先生に夢の中で[決定]を出してくれたらしいのですが…)
放置された生田先生は、「ラスト・タイクーン」のストーリーや台詞を使いながら、小説「ラスト・タイクーン」とは、まったくテイストの違う、蘭寿とむオマージュ作品を作ってしまったようだ。
なので、この芝居は、ストーリーを追うとつらいけれど、蘭寿さん、ステキ!と思って観ていると楽しかった気がする。いや、何回まで楽しいのかは、自信がないが、5回位なら大丈夫だった。
さすがにね、だから、生田くん、よかったよ!とは言ってあげられないレベルなので、ツッコミ的内容になる予定。

まず、原作では、「華麗なるギャツビー」におけるニックのポジション(語り手)を、ブレーディーの娘、セシリアにしている。映画業界の人間ではないが、映画業界にどっぷり浸かった人々をよく知る存在。その“詳しいけれど、外からの視線”が、作品に、“ちょうどよい客観性”を与えている。
小池先生の『華麗なるギャツビー(グレート・ギャツビー)』では、ニックのポジションは原作通りだったが、生田先生は、セシリア(桜咲彩花)を、語り手としては使わなかった。
このため、観客は色々な立場の登場人物を追うのにいっぱいいっぱいとなり、視線が定まらず、やや、とっ散らかった印象を与える結果となってしまった。

次に、モンローの仕事について。
そもそも、映画のプロデューサーが、何をする人か、知っている人は、あまり多くないんじゃないだろうか。
(宝塚のプロデューサーが何をする人か、もよくわかんないですけど…[爆弾][爆弾][爆弾]
日本語で書くと、「製作」というところに名前が出る人がプロデューサー。(ちなみに日本の芸能界では、テレビ・舞台では“制作”と書くのですが、映画だけは“製作”と書くそうです。)
具体的な仕事は…というと、ヒト・モノ・カネの調達&管理ってことになるかな[exclamation&question]そして、映画の完成形を決定する権利を持っている。(よく、映画館で、数年前に公開された映画の“ディレクターズカット版”が公開されることがある。つまり、普通は、ディレクター=監督がカットするもんじゃないわけ。その責任を負うのがプロデューサーということになる。)
この辺は、植田景子先生の『HOLLYWOOD LOVER』を観た方は、あ…あのことね!と納得していただけると思う。
さて、そんなプロデューサーが撮影現場で何をしているか、というと、私の経験では…邪険にされてました[もうやだ~(悲しい顔)]そもそも現場には、プロデューサーの居場所がない!
だから、オープニングでいきない椅子に座ったモンロー(蘭寿とむ)からスタートするのは、かっこいい!けど違う[バッド(下向き矢印)][バッド(下向き矢印)][バッド(下向き矢印)]
あれ、植田景子先生の『クラシコ・イタリアーノ』のオープニングっぽくて好きだったけど、そもそも、あのスタートだと、モンローがプロデューサーには見えない。現場でプロデューサーは、いつもすみっこに立っている。(そもそも、それほど現場にはいかない。)
映画のプロデューサーになる位、映画が好きなのに、えらくなればなるほど、撮影の現場から遠ざかった仕事が増える。それが、プロデューサーなのだ。そういう意味で、ブレーディー(明日海りお)の描き方は、まさしくプロデューサー上がりの重役っぽくて納得できた。

未完の作品の舞台化ということで、[1]フィッツジェラルドが書いていることを改変した部分[2]フィッツジェラルドがこれから書く予定だった部分の改変になるかと思いきや、[2]は、なかった。いきなり、終わっていた[爆弾]
フィッツジェラルドは、プロットを書いたメモを残しており、それは作品と一緒に公開されている。その中で、モンロー・スターの死についても、状況はほぼ確定していて、いろいろとメモが残っているのだが、飛行機事故で死ぬという結果以外なにも採用されていない。
[1]について、ミナ(モンローの前妻)を登場させるなど、自由にやっているところを見ると、同じクリエイターとして、メモ書き部分に触れることを禁忌としたのだろうか[exclamation&question]それとも、遺族から、クギを刺されていたのか…[あせあせ(飛び散る汗)]

フィッツジェラルドが書いた部分の改変については、地震や水難を敢えて出さない配慮など、なるほどと思うものが多いのだが、むしろ、同じ台詞を使いながら、フィッツジェラルドの真意が伝わっていないと感じられる場面が多く、生田先生が、原作をどこまで咀嚼しているのか、少し気になった。

また、細部が妙に気になってしまうところもあった。
たとえば、ボックスレー(華形ひかる)は、何の脚本を書いているのか!とか…
オリジナルなのか、原作ものなのか、どんなプロットなのか…
少なくとも、それは「椿姫」ではないはずだ。
ボックスレーとワイリー・ホワイト(芹香斗亜)がダメ出しをくらっている段階は、撮影開始された映画の改訂ではないし、映画を見たことがないというボックスレーに対して、「ちょうど佳境に入っている作品があります」と言って、「椿姫」の撮影現場に連れて行っていることからしても。
監督交代だの、火事だの、ストライキだの、製作費の問題だの、ブレーディーとの対立だの、で、撮影スケジュールが伸びっぱなしになっている「椿姫」がそこにある限り、ボックスレーや、モンローが現場復帰させたカメラマンのピート・ザブラス(悠真倫)は出番がやって来なそうなのだが、お二人は、「椿姫」の再開に意欲的。いったい何のメリットが…[爆弾]
実際には、売れっ子プロデューサーであるモンローの下には、いくつものプロジェクトが同時に立ちあがっていて、ボックスレーとピートは、それぞれ別のプロジェクトで動いてる人なんだろうけど、そこまで出してくる人員がいないから、「椿姫」に集約しちゃったんだとは思う。が、現場が毎回「椿姫」であるため、それが見えにくい。
「HOLLYWOOD LOVER」の時は、それでよかった。主人公が映画監督だから。監督は一度に複数の映画を撮るなんて無理だから。
でも、今回は、その辺の工夫があると、もう少し、見え方が違ったように思う。

また、モンローとブレーディーの対立構造の根底がよくわからない。
もちろん、ブレーディー=凡人、モンロー=天才という、才能への嫉妬があるのだが、ブレーディーがモンローの上席である限り、二人はうまくやってゆける。競い合わなければ、モンローの手柄はブレーディーが独り占めできるし、そもそもモンローは、手柄がほしくてやっているんじゃない。
ブレーディーは大人だ。地位も名誉もある。そして、会社はモンローなしでヒット作を生み出すことができない。であれば、どんなに腹の立つ男であっても、モンローを立てて映画を作らせるのが得策というものだし、ブレーディーはそれがわかる男だ。
共産党を利用してまでの騒動になるためには、なにかキッカケがほしい。
モンローがブレーディーと手を切って独立しようとしているとか、あるいは、モンローが、セシリアに手を出して、捨てた、とか。
撮影所での労働問題は、結局のところ、モンローの映画への情熱語りで収束してしまうレベルのものだった。そして、両者の対立の結果、モンローは、対立軸にあったはずの、現場スタッフを連れて独立してしまった。
舞台を観て感じるのは、モンローが気に入らなくて意地悪をしてみたら、返り討ちにあって、ブレーディー完全敗北!なのだが、これで正解?
それじゃ、ブレーディー、人間として小さすぎるし、そもそも対立軸にもなっていない。
だから、ブレーディーに勝ったことが、ひとつのカタルシスとして、作品を盛り上げるものになっていない。
むしろ、その後に登場するキャサリンの内縁の夫、ブロンソンの存在の方が重くて、スタジオでは単なる技師に過ぎないブロンソンがラスボス化しているのが、芝居として、宝塚として、いいのか、悪いのか…[爆弾][爆弾][爆弾]

そして、最後にフィッツジェラルドファンとして。
この作品で、フィッツジェラルドが一番変わった、と感じていた部分は、「ラブシーンを逃げない」ようになったことらしい。
以前、フィッツジェラルドの伝記をこのブログで紹介したが、彼のトラウマは、結婚した時に妻が処女ではなかった、ことにあったとか。女性経験のなかったフィッツジェラルドにとって、結婚生活とは、妻を性的に満足させられているかどうか、常にそのこととの戦いだったらしい。女はみんなオレに満足してるぜ!と思い込んでいるヘミングウェイとは対極の存在ということか…。
そんなフィッツジェラルドがハリウッドに行き、シーラ・グレアムという“大人の女性”に出会って恋愛関係になることで、ようやく長年のコンプレックスから解放された。少なくとも、自分は男として、そう悪い存在ではないらしい、と確認できた、というか。
それで、「ラスト・タイクーン」では、ヘミングウェイの諸作品と同様に、男女が気分が高まって求めあう様が、一応、カットされずに(朝ちゅんでなく)描かれている。(具体的な行為を長々と書くようなことはしていないが)
だから、彼の魂のためには、モンローとキャサリンのラブシーンが、二人の初デートで描かれていたら、よかったのにねー[バッド(下向き矢印)][バッド(下向き矢印)][バッド(下向き矢印)]

そうそう、演出的には、モンローの死を知ったキャサリンが、よろよろと歩いて袖までハケるのが、可哀想だな~[もうやだ~(悲しい顔)]と、一部だけでも盆で救ってあげられなかったのかな?と思っていたことも付け加えておく。

とはいうものの、最後に白いスーツのモンローが登場し、[るんるん]「Thank you」と歌う場面は、もうそれだけで、幸福になれる破壊力があった。そういう意味では、演出家として最終兵器を知っているんだなー[爆弾]とは思っている。
毎回、最終兵器頼りはダメですよ~[むかっ(怒り)][むかっ(怒り)][むかっ(怒り)]
でも、あの幕切れに、気持ちよく涙していた自分がいました。そういう意味では、ありがとう、生田先生![わーい(嬉しい顔)]です。

出演者への感想はまた別記事で。

【今日の言葉】~宝塚日めくりカレンダーより~
「もう一度……もう一度、一人になって……あの星にすがって生きてみるよ。さようなら……幸せに……幸せになってくれ……」byエドモン@『アンタレスの星』
―“モンテ・クリスト伯”より―
脚本・演出:植田紳爾
星組 1979年

掲載されている写真は、瀬戸内美八さんでした。

「モンテ・クリスト伯」も植田先生によって劇化されたことがあったんですねー。

この記事へのコメント

この記事へのトラックバック