汐美真帆トークショー第2部抜粋1

あれから2週間ですか…
つまり退団から4週間が過ぎてしまったのですね。嘘みたいだ。
私の中では時間が止まっているみたい。でも、のろのろと片付けはしております。この分だと、2年くらいで片付くんじゃないですかね(遠い目)。
その間に、新しいご贔屓とかできなくて、ついでにもう一人のご贔屓になんかあった日には、私の部屋もずいぶん綺麗になるはず(もっと遠い目)。

第2部(3時の部)は、部屋の外で聞いていたので、詳細には再生できない。
なので、抜粋という形で紹介したい。興味のある方は、どうぞ。

「Maho Shiomi History」抜粋1

2部は、1部(1時の部)の大人しさに反省したであろう司会の方が、最初からテンションをあげていた。
みんなで「ケロさーん」と呼ぶことにしたらしい。
「はいはーい」
ケロさんも乗ってご登場。
会場の熱気も、最初から熱かったのではないだろうか。(前の方の徹夜明けの皆さんが多かったことを考えても)徹夜してまで、ケロさんに会いたかった人たちに対して、
「私は今日は愛でお返しいたしたいと思います」
と、ケロさんは、暖かくきっぱりと答えていた。
会場の外で見ていたら、ケロさんは、衣装から靴まですべて1部とは変えていた。
1部は鮮やかなブルーのジャケットに白いパンツ・靴だったが、2部は…
「カエル色」と言う司会者に
「若草色って言ってください」
とケロさん。こちらの衣装は、下も黒系でまとめていた。
そしてケロさんは、髪を短くしていた。そのことについて、
「伸ばしてからここまで切るのは勇気がいると思って、短いうちに短くしようと思って」
と理由を説明されていた。
現役の時には、リーゼントにするために、そんなには短くしたことはなかったそうだ。
「だから、ばっさり切ってパーマをあててみようって思って」
どうも劇団の裏方さんに短い髪形の方がいて、その人を見てやってみたいと思ったらしい。
普通退団したら髪を伸ばしたいと思うのでは?と不思議がる司会者に、
「まだやめてからスカートもはいてないし。」
と、あくまでも自然体の汐美さだった。ただ、スカートについては、
「いつなんどきいるかわからないので」買わされたらしい。
ハイヒールは、現役中から持ってて、履いていた、と。そういえば、フェミニンな靴をパンツに合わせることも多かった気がする。
ちなみに、メール夫人で作った靴は、「普段使うかもって思って」形見分け(退団する時に、いらないお稽古用のレオタードや靴やアクセサリーなどを仲間に配る)の時にも、取って置いたらしい。短靴やブーツなども普段に使えると思っているとのこと。
退団にあたって、16年間の垢は…
「私はけっこう整理整頓が好きなので、今までもちゃんと片付けてたつもりなんですけど…つもりでしたね。」
としみじみ。
ただ、写真は、「音楽学校に入ったときから」「いただくごとにちゃんと舞台写真用、オフ用、あとファイルに入らないのはアルバムに全部わけてあったので」そんなに苦労はなかったらしい。
「なんか他のタカラジェンヌに聞く情報では、写真がダンボールに溢れかえっているっていうのを聞いて、大変だよって思って…」
今、私の頭の中には、一人の大変なジェンヌさんが浮かんでいる。
「思い出のつまったものばかりなので、整理整頓しながら、あーこういうこともあったなと思いながら、楽しみながら」片付けたらしい。
音楽学校の制服もちゃんと残っているそうだ。最後に着た袴はまだクリーニング中とのことだった。
「千秋楽の日にみなさまとパーティーをして、帰って来て、それを脱ぐ時にやっぱり最後なんだなって、脱ぐのに、わーって」思ったそうだ。
そこから、初めて袴を穿いたのは…という話になって、話は一気に音楽学校時代に戻った。

初めての袴はスミレ売りの時。
「ひとつひとつが宝塚の生徒さんになる第一歩なんだなと思いながら」「どきどきわくわくしながら」
過ごしていたと言う。
そして、それからずっと「自分がこの舞台に立っていられるのは応援してくださるファンの方あってこそだな。」と、いつも思っていらしたそうだ。
初めてのファンレターは予科生の頃。「頑張ってください。これから応援しますから。」の手紙に、「まだちっちゃい少女の自分に」と驚いたらしい。その頃は、「これからどんな自分になっていくのかな?っていう不安と期待と」で胸がいっぱいだった。
初舞台は、『ベルサイユのばら』
その時は「涼風真世さんのトップお披露目公演。私たちも初舞台というめでたいめでたい公演」だった、と振り返る。まず「舞台に立たせていただいているという幸せがいっぱい」で感謝もいっぱいだったらしい。
77期については、「個性豊かな期」と。
一番最初に仲良くなった生徒は?という質問には、同時退団の麻園みきちゃんに受験前に話し掛けたらしいと。(ここでは詳しく語らなかったが、たしか、みっこちゃんを見て、「(麻路さきさんの)妹さんだよね?」みたいに話し掛けたのではなかったかな?)
ただ、ずっと仲良かった生徒は、「とうこちゃん。彼女が一番長いですね。」と。
「音楽学校でおんなじお掃除場で、彼女がお琴教室責任者で、私がお琴教室フロア分担で」「朝から晩までずっと一緒でした」とのこと。
タカラジェンヌとして大切に思っていたのは、「タカラヅカっていう場であるからには常に美しくいたいなというそれを心がけていました。」だそうだ。
「常に自分ができる範囲で美しくいたいなと思って舞台に立ってました。私はタカラヅカ大好きで入ったので、自分がファンだった頃のタカラヅカが心に一番印象的に残っているので、その方たちにちょっとでも近づけるようになれたらな」ととても熱く語っているように思った。

雪組時代の役について
フランツ・ヨーゼフ(新人公演)
「もう一回やりたいですね。(しみじみ)あの頃の自分で考え抜いたヨーゼフっていうのは今でも共感を持てるっていうか。」
DSで少しだけ再演できて嬉しかったようだ。
八右衛門(バウ)
「日本物、雪組時代とても多かったので、上級生の方も日本物すごく上手でいらして、所作とかも上の皆さんから教わって、楽しかったですね。日本人なんだなって感じる瞬間がたくさんあって。」

というところで、日舞の話になる。
名取には一昨年(2003年)の12月になった。
「私は子供アテネで日舞を教えてくださってて、その時からずっとやっていて、間ちょっとあいてたんですけど、初心に戻りたいなと思って自分で習うようになって」名取に結びついたらしい。

雪組時代を振り返ると、「なんかあの頃は私はがむしゃらにがんばっていたので」「男役像になりきるぞーみたいな」「やってやるーみたいな感じが強かったんで。」ということらしい。
一方、「雪組にいる自分はどうなんだろう」「どういうふうになっていくんだろう」という不安もあったようで、結局「印象はって聞かれると、自分が一生懸命すぎててあんまりまわりがみえてなかったんじゃないか。」ということらしい。

雪組時代のトピックスにボランティア活動がある。その話もあった。
知っている人はみんな知っているが、ケロさんは宝塚市出身・地元のジェンヌだった。
阪神大震災で、ケロさんの実家も半壊し、まず、家の片付けを一週間くらいかかってしていたらしい。そして、
「これからどうしようかな。舞台もないしレッスンもできないし。」と思っていたところ、テレビでボランティア募集というのを見つけ、「あ、やってみようかなと思っ」たそうだ。
「人のためになにか役立つって、すごい素敵なことだなと思うし、それをやって喜んでくださる姿とかありがとうって思ってくださる姿を見て、あーやってよかったなって、させていただいてよかったって思えることが、自分の幸せだったので。」
とおっしゃった。
もちろん、こういう経験はしたいことではないが、「させてもらえたことは自分自身に大事にしたい」そうだ。
というわけで献血の話になる。
「200しか取れなくて残念でしたけど」
と恨み節だ。「まだ血がお疲れだったようで」と言うケロさんに司会が、「それほど華奢な方に400は無理なのでは?」と聞いたが、そんなことはないらしい。
「次の日も取れますかって聞いたらそれは無理ですって言われて」ショックだったらしい。

雪組時代が長かったわりには月組時代は一瞬だった。
『血と砂』については「まさかバウホールで主演させていただけるなんて思ってなかったので、大変貴重な体験でした。」…それだけ、、、ですか?

星組時代も、いきなりサヨナラの話に飛んでいた。…が、長くなったので、後半は次回に。

この記事へのコメント

  • みさき

    >「なんか他のタカラジェンヌに聞く情報では、写真がダンボールに溢れかえっているっていうのを聞いて、大変だよって思って…」

    ・・・・あの人しかいませんね(笑)このタカラジェンヌって。
    2005年01月24日 20:27

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